20200930

文通をしたい、という変な欲望がある。なんというか、そういったものたちの速度に憧れがあって、バシバシメッセージ送り合える時代だからこそ、いつ来るかも分からないし返信を首を長くして待ったり、いつ返してもいいお返事を好きなタイミングで書いたりすることは、とても特別なことだと思う。いつか、この速すぎる社会に飽き飽きして退散したくなったとして、それでも文通があるし、みたいな安心感でいられる気がする。想像でしかないけど。人と密接に関わっているのはあんまり得意ではないから、自分なりの距離感みたいなものを模索していけたらいいな。まあ、文通とか言うものの、僕は字が下手なので、手書きの手紙は本当に書きたくない。これは本当に悩ましいジレンマ。プリンタで印刷したいな、やることになったら。そんなことを考えたりする。

現実だけでなく、ネット上でも仲良くしてくれる人も多くて、そういう人には、すぐに実物はどんななんだろうって思っちゃう。文章上でしかやり取りしてなくて、でもなんとなく気が合いそうな気がするからそうなるよね。あんまり言わないけれど。もちろん、文章上の僕と現実の僕がまったく雰囲気が違うように、他の人もたいてい同じで、雰囲気違っているのだと思うけれど、この上なく気が合いそうだと思い込んでいるのだから、一度だけでいいから会ってみたいという欲望がある。最果タヒが、平安時代の歌でやり取りしてた時代は、相手の顔が分からないから現代以上に容姿が重要な意味を持っていたんじゃないか、みたいなことを言っていて、それに近い感覚なのかもしれない。世はまさに平安時代

というか、何でこんなに人恋しくなってるのか。人間関係に飢えすぎです。でも、それもそうか、関東に出てきてから友達がいないし。友達をくれ。職場で仲のいい人はいるけど、職場の人はどっちかと言うと仲間なので、損得なしの友達がほしい。友達募集中です!

↑友達募集中という言葉は、かわいいけどとても胡散臭くて、その単語で友達ができるわけがないし、ただの自分語りにしかなりません。まったく。友達になるために「友達になってください」とか言ってもダメなのは、友達になってもいいと思えるような物語が足りてないからだ。物語だよ、必要なのは。言い訳と言ってもいいし、理由といってもいい。募集中とか、直接的過ぎて、はあ、って感じですよね。ホントに友達になりたいなら、態度で示そうよ態度で。そういう小さな積み重ねが関係性です。自分の行動が全て。でも、態度で示すのが苦手だから、友達募集中!みたいな言葉に頼りたくなるのでした。他人任せすぎますね。

Twitterを眺めてたら、「(入社予定の?)希望に満ちたキラキラJKにくたびれた大人の真実を見せられないから、今ぐらいは理想を見ててほしい」「私は若くないしなあ」みたいに呟いている中学の頃の同級生を見かけて、ちょっとだけ時間の流れを感じた。高卒で社会人になっているからもう僕の倍以上の時間を社会人として過ごしてきて、いったい何を見てきたんだろう。けっこう美人で、僕のことを「かわいい!」って言いながら構ってくれた仲のいい人だったんだけど、あの頃からだいぶ変わってしまった。呟きから感じるのは、人生のピークは過ぎ去ってしまったと思っていること、色んなものを諦めていること、そんな風に諦めて我慢している自分たちは頑張っている、と思っているということ。僕には昔が一番楽しかったなんてどうしても思えないし、あの頃と今の楽しさを比較することがあんまり好きではない。今は今だし、昔は昔だし、未来は未来です。それぞれ、それぞれの楽しみ方があるのだから、あの頃がとか、今の方がとか言い出すのは野暮だ。だけど、あの頃はとか言いたくなってしまう気持ちも分かる。無邪気に「かわいい!」って言ってくれたあの日のことを思い出す。あの頃は漠然とみんな同じところにいると思っていて、もちろん彼女も僕も同じ部屋の中で同じように過ごしていて、でも今、まったく違う価値観でまったく違う常識の中にいる。今、別々の場所でも、あの頃、同じ場所にいたから、他人事だとなんか思えないし、幸せになってほしいなあなんて思うし、でもそれすら傲慢な思い込みで、もうすでに幸せだと思っているのかもしれないし、何もかもがよくわからない。もう声をかけるほどの距離じゃないから、遠くからひっそりと祈っているくらいの感情のままでいます。