20201111

寝る前に久しぶりにnoteを更新して、久しぶりに自分でも勢いのある内容だなと思える文体で書けて、良かったかあと思う一方、どこかで、この気持ち悪さを自覚している。僕は自己批判ばかりをして、ちゃんと反省したフリをしているばかりだと、気づいている。

批判しながら、自分は外部にある何かしらの正しさに準じていますから、当たり前に正しいですよ、みたいな顔をしてるのを見ると、でも、その批判は誰の言葉だろうって思います。最近、映画批評ブログをよんでいてそう思ったことがあった。もちろん批評の言葉が全部そうじゃないし、別にいいとか悪いとかって話でもない。それに映画批評は好きです。でも、映画的だ、とか映画的でないとか、言うことによって保証された正しさの中で使っている言葉はいったい誰の言葉だか分からなくなるときがある。あらかじめ、映画という型があって、その型に正直であるほど映画的になっていくのだとして、それを判断するのはきっとAIとかでも可能なのではないだろうか。何度も書くけど、いいとか悪いとかの話ではなく、ただ僕が最近、そういう言葉に、リアリティを感じないという話です。その人が、その人として溢した言葉が好きだ。感情でしかものは語れない。たぶん僕が好きなのは批評なんかではなく、感想なんだってことなのだと思う。

そんなことは置いておいて、自分の感想を置き去りにして、一般論を振りかざしながら、他人をいいとか悪いとか言うことを僕はしたくない、と最近はそういう気持ちでいるわけですが、そうすると何を話したらいいのか分からないから、安全に批判することができる自分自身に矛先を向けて、自分に対して一般論を振りかざしたりする。自分に対してだけは、一般論を振りかざしてもいいと思ってる。それで、ダメだなあ、とか、嬉しいなあとか、反省したフリをして共感を集めようとする。一番自分に対して正直じゃないよこれは。この態度が、一番臆病な方法だなあって、そういうことを感じているのだと思います。自分の感情でものを語るべきなのだと、「ある」という記事を書いていて思ったし、そういう風になっていかなくちゃいけない。なので、自己批評的な記事はもうたぶん書かないです、これが最後。もっとちゃんと正直に、自分と向き合った言葉を書きます。そう思った。わすれないように、留意。

そういえば、僕はファイト·クラブが大好きなんだけれど、あのラスト、ファイト·クラブのあのラストがなんとなく今急に、ストンと落ちたんだ。あのラストで、タイラーになったわけではなく、あの瞬間、タイラーを受け入れて、自分に弾丸を撃ち込んだ、それが何なのかたぶん今までよく分かってなかったのだと思う。でも、今なら分かります。ものを消費して自分を殺すのではなく、安易に共感を求めるのでもないが、自分の中の欲望そのままになるわけでもなく、ただその欲望を受け入れただけのあの瞬間のことが今ならわかる。