20210307

ひっさしぶりに note を更新した。「是非読んでください」、みたいなことは一切言えない僕の弱音が詰まっているだけですけれど、そういうのでもいいでしょって思っている。僕は何か不安に思ったらそれを吐き出すし、それでそんな不安がこの世にはあってもいいんだって思ってくれる誰かがいるなら、僕は満足だし、別にどこにもいなかったとしても、ここに不安があるという事実にはきっと意味があるというそんな哲学でもって書いている。

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最近、Macbook のことを頻繁に書いている気がして、Macbook の虜みたいになっている。そう思われても仕方ないというようなことを書いている。今回書いた記事の中で、「Macbook を買うことによって自己実現をしようとしている」という読み方ができるし、そういう見方で見たら僕は消費主義の権化みたいに映っているのかもしれない。「何を買うか」、によって自分を表現する、という回路はあんまり好まれないと思うし、僕もそんなにしたくなかった。人間は「何を買ったか」ではないと思っている。でもある種、そういう側面はある。お金が有限である以上、そこには選択がある。選択するということは、その人の方向性であるということだ。湯水のようにお金に溢れていたら全く別なのかもしれないけれど、少なくとも僕みたいな貧乏人はお金を何に使うのかが、方向性を表してしまうものだった。もし「Macbook を買うことによって自己実現をしようとしている」と言われたとしたら、咄嗟に「自己実現のためにMacbook を買ったのだ」と言い返したくなると思うのだけれど、そんな因果の逆転をしたところであんまり意味のない気もする。何というか因果は同時に発生するものであって、順番はない気がする。もしくは、もうちょっと複雑な相互の矢印が絡み合って存在していると思う。「AだからB」みたいな単純な構図になるとはあんまり思えない。そこには、Macbook を買ったことと、それを用いて何かしようとしている という二つの事実があるだけであって、それを僕という意識がどう脚色するのかという話でしかなかった。もちろん他人に伝えようと思ったら僕はどちらかの語り口を選んで語ることが要求されるし、だからと言ってどちらかに仮託しすぎるほど、本質から外れていくものだとも思う。嘘はいくらでも言えるのに、真実とか真意とか(「真」なんて言葉が付くのも何だか胡散臭いけれど)そこにあるそのものそれ自体を指し示すことほど難しいのは、そういうことが原因だと思っている。だから、別に僕は誤読されたっていいし、そもそも誤読されないわけがないので、ただ正直に書くだけでした。そしたら、こういう文章になった。