20210504
ときたま「うっせぇわ」を口ずさみたくなって、小さい声で歌ってみるのだけれど、とてもあんな風に歌えないし、どうやって歌ってるんだと思う。裏声と地声と巻き舌とその他諸々、あんなスムーズに切り替えられる声帯を僕は持ってない。僕は音痴です。でも、持っていたってそれはめんどくさいはずだ。どうしてあんなに切り替えなきゃいけなかったのだろう。「あなたが思うより健康です」「一切合切凡庸なあなたじゃ分からないかもね」など、歌詞の攻撃性が高すぎるので、そっちに気を取られがちなのですが、「うっせぇわ」はどっちかと言ったら、Adoの歌い方がないと成立しない気がする。
Adoの歌い方は、明らかに「歌ってみた」の系譜なのだけれど、自己顕示欲みたいなものが一切無いように聞こえて、それがすごいと思う。歌うことが表現である以上、そのほとんどは自己を表現ツールとして機能するし、そのために僕らは感情を使っていく。失恋して悲しいとか、カッコよくみられたいとか、その感情をいかに歌に託せるかが重要で、そのために、抑揚を使ったり、イケボにしてみたりするのが一般的だ。でも、なんというか、Adoの歌い方ってどこまでも歌に奉仕している。何を表現したいかというよりも、先に歌があって、その歌に適した歌い方を意図的に選択してる。悲しい曲なら悲しく歌うだろうし、力強い曲なら力強く歌うのだと思うし、一曲の中で、かなり変わる。「マインドゲーム」の中に出てきた神様みたいなものだ。常に顔が変化し続けるから、本当はどんな顔なのか分からない。そんな感じ。でも、それが要求されるほど多彩な表現が必要になるし、そしてそれを器用にこなしてしまう表現力を持ってしまっているのが異常だった。器用すぎるから、歌っている本人のことが分からないんだ。
この歌い方は僕の目には、歌うことのために自分の感情を使っているように見える。感情が先にあるのではない。僕が「です。ます。」と、「だ。である。」をミックスした文章を使っているのに似ていると思っている。文言によって「です。」と言った方が適切そうだな、とか考えて使い分けてる。同じように、歌詞を適切に表現できる感情を適切に出して、その切り貼り作業で一曲が完成する。演技みたいなものだった。そんな調子だから「うっせぇわ」と聞いても全然そう思っていないように聞こえます。上司とか社会常識に対する不満があることはあるのだけれど、それは歌にして主張するほど感情が込められていない。攻撃的な歌詞だけれど、その実攻撃性は一切感じられなくて、その空虚感の方が全面的に出ている。だから、結果的に「うっせぇわ」の奥底にあるのは、「うるさいよお前ら」ってことでも、「うるさいって言いたかった」ということでもなくて、「うるさいと思えたらよかったのに」という願望のように見える。うるさいと思えるだけの感情を持っていたら、もっと活力的に生きていけたはずだったのに。という感じ。それは意図して与えている印象というより、事故的に発生してしまった意味合いなのだとは思うけれど、その誠実さが好きなんだよな。そんなことを思った日。