20201001

あと三ヶ月で今年も終わるのだと言われて驚いた。今年は四季が変わった感じる機会は少なく、その代わりにもっと見えにくいものばかりが変わっていったので、何かが変わっているという実感が持てなかった。でも、ちゃんと時間は進んでいたようです。

会社では内定式があって、来年の新入社員の人たちが来た。僕があの席に座っていたのはちょうど一年前のことで、ずいぶんと見え方が変わったな。短い期間だけれど、あの頃と比べたらずいぶんと角がとれて、社会人として自立してきたような気がします。学生のときは自分でも自覚しない自分本意な部分がたくさんあった。そういうところに気づける点はいいところだね。僕が社会人になるときのモットーは、社会にあんまり適合できていない僕が(自分を磨耗させないまま)社会に適合してやろう、だったのだけど、着実にそれに近づいている。しっかりとした人間に擬態して生活したい。でも、自分で、社会に適合できてないとか言ってしまうあたり、どこか痛い。誰だってどこかしらに社会からはみ出る部分を持っているのかもしれないし、それを自分だけとか思い込んでしまうようなねじれた自意識を消し飛ばして!

↑そもそも「社会」という枠組みが広すぎて、社会に適合するとか、なんじゃそりゃ。社会人になって思ったのは、普通の社会人なんてどこにもいないということです。学校みたいに、勉学と運動が大事だよ、って人を測る基準を設けていないと普通なんて単語が出てくる余地はない。職場によって、働き方によって、まったく違うものだから、社会人になってからは、常識なんかよりも自分と向き合う必要が出てきたような、そんな気がする。もし、ほんとに普通の社会人がいたなら、普通すぎて逆に異常ですよ。

noteやTwitterで絡みがある方が、今年の夏の写真や動画をまとめた動画を作ったらしく、その冒頭のタイトルが表示されるまでの3秒くらいを昨日ツイートしていた。素敵!と思った。夏夜のマジックが流れていて、僕は夏夜のマジックは悲しい曲だと思っていたけれど、映像はすごいサイダーみたいなポップさで、なぜかそれが限りなくマッチしていた。かわいすぎる。

悲しい曲に悲しい映像を載せるのは常套手段だけど、悲しい曲をポップにする、その振れ幅が僕は妙に好きだったりする。そっちの方がなんだか、人間らしいじゃない? 悲しいといいながらずっと悲しんでいられる人のなんて少なくて、友達の前では無理にでも笑ってしまうことがあるし、感情には奥行きがあります。その表面に出てくるものと奥にあるものの間に挟まった言語できない空間の広がりを感じる。そういうのが表現できてるんじゃないかなあって最近は思う。奥行きの出し方はいろいろあって、曲調と歌詞という方法もあって、僕がヨルシカを好きなのはそういう理由だ。

脱線しました。昨日そんな動画を観たから、今日は僕の今年の夏ソングはなんだっかなと考えていた。十月一日で、もう完全に秋だから、夏を振り替えるにはちょうどいい時期。そこで真っ先に思い付いたのがこの曲。

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「ああ、永遠に夏してたい」って凄く爽やかに、無邪気に始まるのに、そのフレーズが炭酸を飲んだときのパチパチみたいな痛みを残すのは、永遠に夏してたいなあ、なんて思うときはいつも、夏の終わりを意識しているから。