20211123

最近、IPadを買って、そちらでも手書きの文字を書いているのだけど、これがやたら楽しい。書いても書いても、自分の中に潜っていきたくなるし、潜っていけばいくほど、知らない自分が出てくる。知らない自分を見つけるために文章を書くという経験を僕はしたことがなかった。

文章は何かを表現するためのツールだとばかり思っていた。今まで「自分の中に潜っていく」と書いたことはあったけれど、結局のところ頭の中で考えたことをアウトプットしていただけの、ただの最終成果物だった。なにかを表現し、発表するためだけに文章にしていると、頭の中で完成しているものしか文字にはならない。それではもちろん当たり前の文字の使い方なのだけれど、そうでない使い方があるのだと気づいてびっくりしている。自分の曖昧な感情と並走するために文章が使えるのだ、ということだった。

本来、全体が見える前のよく分からない感情とか論理は頭の中で眠っているはずで、発表する風な、完成された文章を書いている時、頭の中で「なんだろうこれは??」と考えているものに関しては出てくる余地がなくなり、自ずとしまったままになる。その上で、さらに発表用の文章ばかりを書いていくとネタ切れになって、自分の知っていることばかりを手ぐせで書いていくようになる。それで焼き直しばかりをして、勢いを失っていく。

これが最近の僕の状態です。こうやって日記風なブログを書いてみてはいるものの、なんだかパッとしない。発表する必要もないことを書いて、なんだかなあとやっている。

だから、ネタを掘っていくことをする必要があると思ってIPadでの手書きを楽しんでいる。要するにバッファを確保しておく必要があるということなのだと思う。言語化していることと、発表することの他に、言語化しつつ発表しないこと、という領域を持っておくことが人間味なのかもしれない。思っていることを全て話してしまう人は、多分深いんだけれど、どこか薄っぺらく感じられてしまうというのがある。思ってみれば、頭の中全部さらけ出した思考全裸な人ではなくて、思考に服を着せて、適切なところで適切に表現できる人になりたかった。そっちの方が、底知れない雰囲気が出るので。僕はずっと底知れない人が好きだった。家庭教師ヒットマンリボーンの雲雀さんとかが好きです。あの人は全く知的ではないけれど、どこか底知れない感じがする。これから僕はそういった底知れない人になるために修行をします。

なんで手書きだといいのかと考えていたけれど、文字が規格化されていないのがいいのかも知れない。僕の字はとても汚いし、筆跡の癖も、強弱も出てきてしまうけれど、デジタルだとそれはない。感情が籠ったところも、そうでないところも全て同じ文字になる。デジタルが普及した現代において、どちらかというと手書き文字は絵に近いのかもしれない。手書きはより肉体的だった。規格化されていない不完全な文字だからこそ、そこには不完全なものを不完全なまま預けられる度量があるような気がする。よく分からないけれど。もしかしたら、僕は自分の汚い字を発表したくないしするつもりもないので、手書きは自分だけのもの、という安心感が宿るのかも知れない。

ともあれ、そんなだから雑多なことは全部手書きで書くことにします。でも、本来雑多なことを書くのはこの場所の役割だった。でも、この場所も公開している以上、結局発表用の文章に寄ってしまう。そのため、適さないと思ったので、一旦閉店とします。楽しみにしてくれていた方がいるかどうかは分からないけれど、もしいたならごめんなさい。そのうち底知れない人になって帰ってくるので、それまでどうかお待ちください。