20201015

以下のような文章になってしまって、これは明らかにnote向きなのでnoteに出すことにした。

 

ちょっと昔の漫画のキャラって、設定として好きな食べ物が設定されていることが多かった気がしてる。みたらし団子が好きとか、蕎麦が好きとか。そういうときの好きは、たいてい尋常じゃないくらいの好きだから、皿に大量に盛られた好物を両手で頬張るシーンが挿入されたりすることがよくある。おいしいおいしいともぐもぐ食べてる。で、お腹が膨れる、みたいな。キャラクターのある一面の性格を過剰に設定し、どんな人物か分かりやすくするのが目的なのだと思う。食べ物によらなくても、お金に目がないとか、美女に目がないとか、そういうのもあった。かなりの多用されていた手法だったな。それは、要するに「ツンデレ」みたいに、登場人物を人間ではなく、ある種の属性として捉え直すことだ。夢を求めていて、24時間そのことばっかり考えている人。人前だけじゃなく、一人でいるときもずっと明るく笑ってる人。優しい人はいつなんどきでも優しいのだ、みたいな単純な人間解釈による欺瞞がそこには見えて、そういう描写は好きになれなかった。とても嫌いというわけではないけれど、積極的に肯定できるわけでもない。もっと人間は複雑だよなと思っていたから、複雑なものを見たいと思っていた。

例えばテレビのお笑い芸人が、一発芸で売れて半年後には消えていくというのも、同じような現象だったのかもしれない。芸人という人間を、一発芸をするためだけの存在として消費していく。「そんなの関係ねえ」の人、「ゲッツ」の人、みたいな形で、芸がその人を表現するキャラとして定着し、その後ろ側でしている生活のことについて考えない。それで、目の前から去ってしまえば、去ってしまったと思うだけ。たぶん、人間もキャラクターのように、消費されていた。身の回りの人間関係だって、面白い人とか、静かな人とかそういう風に解釈されて、通りすぎていく。

だから、僕は絶対にキャラにはならないぞ、曖昧なままでいるぞと思った。簡単に解釈されない、もっと複雑な主体なのだと言いたかった。それが他人に対して一番正直だ。複雑に生きているから、複雑に生きているよと伝えること。そのために、他人に対してなるべく、解釈の尺度を提供しないようにすること。それが、唯一可能な抵抗だった。でも結局は、反射的にキャラとして振る舞ってしまう。いじられればその場のノリでふざけてしまう、だから不可能だったけれど、心の奥で、根っこの方でもっと違うんだ、自分は複雑なんだと思いながら過ごした。そうして、年を重ねた。

でも、実際のところ、曖昧でいようとすることと、曖昧なものとして他者を捉えないということは別のことだったように思う。僕が苦手だったのは、他人を複雑な主体なのだと認識しない態度の方だった。自分が曖昧でいようとすること、それはただ身勝手なだけだ。自分の全部を知ってください、みたいな傲慢がそこにはある。何も自分からせずに、他人に積極的に自分のことを解釈させようなんて、受け身的すぎる。僕が他人に対してそこまで興味がないように、他人だって僕に対して興味があるわけない。最近、「他人に全部知ってもらう必要なんてない、全てを説明する必要なんてない」と、友人が言っていたのを聞いて、そうだなと思った。多面的な人間です、とか言うのは、後からでいいし、別に知られなくても済むことだ。他人に対してある一定の解釈の余地を残しながら振る舞おうとすること、それはきっと優しさだった。別に積極的に分かりやすくなっていくつもりはないけれど、誤解されたっていいじゃん、くらいの気分でいた方が色気が出る気がします。なんか、まとまらない文章ですが以上。