20201017

劇場版「鬼滅の刃」を観ながら、終始ガン泣きしてました。

(以下ネタバレあり)

僕たちはいつだって永遠になりたくて、終わらない関係、絶対不変の価値、誰にも負けない強さ、愛と平和、を求めていて、でもできないから、修行したり、文章を書いたり、音楽をする。ただ平凡に生活しているだけでは届かない、永遠に触れたかもしれないと思える、その一瞬のために、心を鉄にする。何者かにならなければいけない。時間に押し流されて死んでいく前に、生きた足跡が波に消えないうちに、絶対的な何かに接続して、地位とか名誉とか肩書きとか実力とか、とにかく何かを、掴み取らなくちゃいけない。そのためだったら、何だって捨てる覚悟があります、人生の全てを捧げます。そうやって、強くなりたかった。強くならなければいけなかった。

そんなことを思う瞬間は、誰の生活の中にも少しは潜んでいるものだと思う。文章を書かなくても、音楽をしてなくても、夢破れたり、失恋をしたり、悲しいことがあれば、永遠みたいなものに頼って、何とか自分を保とうとするのが人間でした。自分が変わってしまう前に、自分の外側にある原因の方を潰してしまいたくなる。押し潰される前に押し潰したい、みたいな欲望。僕が僕であるためには勝ち続けなければならない、という強迫観念。それを実現するための永遠で、そのために強くなるのだという覚悟をする。努力をする。

でも、鬼滅の刃を観ていて思うのは、この覚悟は、決して僕たちの強さなんかではなく、むしろ弱さだったのかもしれないということだった。永遠とかそういうの全部、自分のための、自分のためだけの感情で、誰のためでもない、つまるところエゴでしかないんだ。鬼滅の刃において、鬼という存在が不死として描かれるのは、鬼が弱いからだった、きっと。弱いから、悲しい現実を前にして、奇しくも永遠を願ってしまった、そんな僕らの姿だった。

無限列車編に登場する鬼の一人である上弦の参は、煉獄さんを「鬼にならないか?」と誘う。どんな武術家であっても、人である以上いつか老いて、今ある技術は失われていく。でも、鬼になれば永遠で、武術だろうと剣術だろうと、至高の領域までたどり着くことができる。誰にも負けない強さが手に入る。お前は強い、その資格がある。だから、一緒に鬼になろうじゃないか、と。そう誘ったのはたぶん、上弦の参自身が老いることに対して嘆いていたからだ。劇中で上弦の参の過去については触れないけれど、きっと昔、弱い存在でいられないと思った過去があって、だから力を欲していて、だから老いたくないんだろうな。老いて弱ってしまったら、また何かに負けるのだと思って怖いのだろうなと、そんな過去が見え隠れするからいい。で、煉獄さんはそんな誘いにはのらないから戦闘になる。

アニメ化にあたって、上弦の参と煉獄さんの戦闘シーンが長尺になっていたのだけれど、これがめっちゃ良かった。めちゃめちゃカッコいい。でも、それだけではない。鬼と戦うということは、人間が永遠でないこととの戦いです。傷も癒えないし、ちゃんと老いるし、ちゃんと死ぬ。有限である中でどうやって不死である鬼に立ち向かうか、ということを見せた方がそれらしく、そのために、持久戦であるべきだった。鬼を切ってもすぐに再生してしまうが、人間だけはその傷が残り、動きが鈍くなっていく。だから、長期戦になればなるほど人間はフリになる。時間が流れているのだから、人が傷つくしのは当たり前だし、疲労するのも当たり前だ。そんな中で、ずっと全盛期、ずっと万全であり続ける鬼が相手なのだから、はじめから、勝ち目なんか薄いに決まっていた。

だから、炎なんだ。炎のように。ここにある命をただ使っていくことしかできなかった。煉獄さんは途中から確実に死を意識してたし、それなのに「責務を全うする。誰も死なせない」とか言ってしまっていた。後とか先とか考えてない、自分のことすらも考えてないから、命だけしか賭けるものがなかったんだ。片目が潰されて、骨も折れて、内蔵もズタボロで、燃え尽きて、それでもまだ燃えて、そんな刹那的な生き様が、堪らなく愛おしい。(この「堪らなく愛おしい」は、実は煉獄さんが自分で言ってたセリフで「老いるからこそ、死ぬからこそ、堪らなく愛おしく、尊いのだ」らしいのですが、戦闘前のこの会話がこの戦闘後の煉獄さんの死を予見しているようで悲しくなりましたね。)そうやって炎のように死んでいった。それでも、焼き付いて残ったものがちゃんとあって、それが守った人たちだったし、炭治郎たちだった。炭治郎がちゃんと泣いて、自分が弱くて悔しいって、言っていたからよかった。そうやって繋がっていく。繋がっていくから、人間の有限は、結果的に見たら永遠ってことなのだと、そんなことを思った。

ただ、鬼の解説を書こうと思っただけだったのだけど、筆がのりすぎた。そのくらい面白かったので皆さんも是非。