20201206

僕はあなたではないので、言葉を書き残すことしかできなかった。でも、あなたは僕ではないので、ここにある言葉はすべて、あなたのための言葉だよ。

↑今日浮かんだ言葉でした。ちゃんと筋道が立っている気がする。この日記でさえもあなたのものだと思う。あなたにとっては。言葉はそこにあるだけの記号でしかなくて、積極的な解釈を必要としてはじめて意味になる。解釈をするのが読み手である以上、文字列を生成しているのは、網膜以後の情報処理のどこかにおいてで、書いた本人がどう思っているのかなんてことをすっ飛ばして、この言葉はあなたの中で生まれていた。だとしたら、人の見えている世界のすべては主観でしかなく、記憶が捏造されるように、自由に書き換えてしまうことだって可能でした。むしろ、文章は自分の見たいような姿に変形させることでしか消費できないのかも知れず、なら、書いた言葉を僕のものとして消費してもらおうなんていう態度は、間違っているのかもしれない。

と、これを見て思った。

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最果タヒ展。言葉が浮かんでいて、それを僕は僕の立った位置から見て、意味を探していく。そういう、展示でした。この文字はゆっくりと回転したりするので、視界に映る言葉は生成と同時に消失されていき、そのときその瞬間にその場所でしか見いだせない文字列がある。だから、僕が立ち止まって写真を撮るのは、咄嗟にいいなと思えた作品でしかなく、よって、ここにある言葉は、実は何も言ってなかったのかもしれない。言葉が映し出すのはどこまでも僕なので、鏡みたいなものでした。あなたは優しい人です、という占いの言葉で人に優しくした記憶を引っ張り出すように、あなたは悪い人です、という言葉で人に悪いことをした記憶を思い出すように、自分の中にもともとあった言葉の羅列に出会うための場所だった。

この文字には向こう側にいる書き手が想定されていないので、そういう楽しみ方をするものだと、楽しんだわけですが、でも読みたい文章ばかりが目に飛び込んで来ているような錯覚があって怖くなったのも事実です。もしかしたら普段、読みたい言葉しか選んで読んでいないのかもしれない。言葉の鏡としての作用はとても強力だなって、そういうことばかりを感じていた。こう感じている、これだって、僕の解釈でしかない。

でも、この展示で最近考えていたことがぼんやりと見えてきました。僕が書きたいのは書き手を透明にした鏡みたいな言葉ではなく、読み手と書き手の真ん中に、ぷかぷかと浮かんでいるような言葉だった。好きに読めばいい、僕の想定から大きく異なるものとして読まれてもいい、でも、僕のものでも、あなたのものでもない、言葉が、真ん中に浮かんでいるという、それだけの事実が僕はすごく大好きです。祈りみたいなものだと思う。

ともあれ、最果タヒ展はすごく良かったです。クリアファイルとか買いましたけど、ちょーよかった。おすすめ。