20210524

今月に入ってから本ばかり読んでいる。一月に十冊近く読んでいるかもしれないというレベル。いつぶりだろう? 今はインプットの時期なのかもね。

最近、文章を読むときは、単語と単語の間を読むように心がけている。僕はめんどくさがりなので、分かった気になってすぐに文章を飛ばし読みしてしまって、後になって振り替えるとまったく内容が頭に入ってないということが、ままある。なので、どうしても分からないところ以外は、単語と単語の間の脈絡が読み取れないうちは先に進まないようにしている。これが意外と面白いですね。

20210523

日記を読み返していたんだけど、半年前くらいの日記がべらぼうに面白くて、最近の日記は面白くない。なんでなんだろなって思ったんだけどさ、これ、PCで書いてるから説ありますね。notionで書いて、はてなにコピペしているんだけど、スマホアプリからだとnotion書きにくい。なので、PC使って書いてました。でもさ、PC一回立ち上げて書くとか、ちょっと肩に力入り過ぎと違いますかー? 日記なんてもっとフランクに書いちゃっていいし、逆にそうじゃなきゃいけないんだよ。肩に力が入って書いた文章で、僕の日常を捉えることなんぞできてたまるか。僕はまいにちフニャフニャ生きてるんだ。

日記の整理をした。日記は整理するものではないので正確な表現ではないね。はてなに書いた日記を、ちゃんとぜんぶnotionにも残すように移した。二月くらいからのものしかなかったわけだけれど、ちゃんと去年の9月からnotionで見れるようになったよ。

20210521

地元に帰省できなかったり、大学の友達に会いに行けなかったり、もうね、いろいろコロナには思うところがありますがね。早く収束して欲しいね。

大学の友達とまたオンライン飲みした。僕は何も聞いてなかったんだけれど、他の三人はケーキを買って蝋燭を立てて、「ハッピバースデートゥーユー♪」と歌ってくれた。サプライズ! でも、僕だけ、ケーキを食べてない! なんだこれ。

と、最高なメンツで、夜の2時くらいまで話してた。起きたら、22日の10時くらい。

そこから上の奴をツイッターに投稿してみたけれど鮮度が落ちてるよ、その場で投稿しておけばよかったぜ。

20210520

何か本当のことを言えなくなってしまうのは、黙り込んでしまうからではなくて、しゃべりすぎてしまうからなのかもね。しゃべりすぎて打ち明ける暇もない僕たちの孤独。

↑とは全く関係ないけれど「ポップしなないで」というアーティストを発見しました。最高ですね。

open.spotify.com

20210519

自分におくるための誕生日プレゼントを探しているんですが、何かあるかなあ。本というのもありきたりだし、だからって、特別欲しいものなんてあったかしら。と思って、自分で作ってる wish list をみてみたら、この二つがあった。

Tension Rod C Black 200~275cm 縦取付 D-C-BKec.heianshindo.co.jp

sekifusha.com

なるほど。でも今じゃない気がするんだよなあ。何かおすすめのものありますか。

20210518

●さんの詩集が届きました。バツのつけかた。

●さんは名前からしてどう考えても、マルっこくて、みんなを受け入れてしまいそうだって思ってたんだよな、どこかで。なのに、今回はバツのつけ方について書くのだという。バツをつけることについて、●さん自身が何を感じていたのかは分からないけど、どこか「まっすぐな通知」とは違った。なんだろう、気迫が感じられたような気がする。「まっすぐな通知」だってもちろん気迫があった、だけどそれ以上のものがここにはあった。ずっと言葉が揺れているような気がして、そこから滲み出た覚悟みたいなものが垣間見えて、少しだけ泣きたくなった。勝手な妄想ですが。

あとがきを読むと、●さんにとってのバツとは、可能性を絞っていくということに見える。「なんでもできる、を、なんでもできると勘違いしたまま、なんでもできる人間になってた。」と書いてから、「そんな自分を壊してみたくて、そんな気持ちを残してみたくて、この詩集を創りました。」と書いている。何にでもなれるということは、まだ何でもないということだ。だから、何か成し遂げるために、色んなものを切り捨てて行く覚悟、みたいなことだと、僕はこの文章を読んで思った。そうだよな、とも思った。でも同時に、詩を読んでいたとき、僕はあまりそんなことを思わなかったな、とも思った。

バツのつけかた」に収録された詩の中には「私」、「あなた」という言葉で、自分と他人を明確に切りわけたものが多く、その分割はどこか「孤独」に繋がっていたように思う。「ゆびさきが光る、と同時に、きみが光ったような気がして」と書いていた「まっすぐな通知」とは正反対だった。僕たちは本当にたまに一緒になってしまう瞬間があって、そんな瞬間のあたたかさを切り取ったのが「まっすぐな通知」だったとしたら、「バツのつけかた」にあるのは、僕がどこまでも僕でしかないこと、あなたになれないこと、の冷たさだったかもしれないと思う。僕たちは結局のところ、一人を選んでいくことしかできなかった。そういうのを考えていくと、この詩集が何にバツをつけるのかっていうのは、夢とか可能性というよりも、他人の存在だったように見えるし、だから、この本を読んでいるとき僕はずっと僕自身にバツがつけられているような気がしていたんだよな。僕の顔面に大きなバツがあった。でも、それは全然悲しいことではなくて、僕は他の誰でもないし、もちろん●さんでもなかったという当たり前のことで、だから僕は僕で、僕の進むべき先を見つけていくしかないという、そんな背中を押してくれるような、優しいバツだった。

と思ったんだけれど、僕が読みたいように詩を読んでいるだけな気がするなこれは。はっきり言って一回目読んだとき、何が書いてあるのかぜんぜん分からなかった。まあ、詩なんてそういうもんなんだけれど、二回目三回目と読んでみたら、あるとき意味が現れてきて、こういう感想がポトっと落ちてきた。それをとりあえず言葉にしてみました。

20210517

note や Twitter で影響を受けた人のことを積極的に書かないようにしている節があった。最果タヒとかね。僕が敬体と常体を使い分けていたりするのは最果タヒの影響です。前に note で、最果タヒが書いた絵本の「ここは」の感想文とか書いちゃったから分かる人は分かると思うけれど。あと、この前書いたカタシロに登場していた名越先生も好きだ。あの人ほど信頼できる大人を僕は知らない。今60歳だって。いつかあんな人になれるのかしら、僕も。その他諸々。きっとそういうのをバレるのが恥ずかしかったんだろうな。あんまり影響を受け過ぎていたりすると、出典が分かっちゃうからね。別に僕は何かを参考にして書いていることは少ないのだけれど、それでも、でてくるよね。「自然に生きてるだけですれ違っていくから、あなたの悲しみも、わたしの寂しさも、すべてかわいい。」と記事に書いたことがあって、このかわいいの使い方とかモロに最果タヒだよね、ほんと。自覚してたけれど、自然にでてきたし、まあ、いっかーと思って使ってます。

こういうこと隠す必要性があんまり感じられなくなってきたので、おおっぴらにnoteのTwitterアカウントでフォローし始めた。note は僕の人生を綴る場所だと思っていたから、自分以外のものを書かないように意識していたのだと思う。だけれど四半世紀にも満たない人生ではさ、ネタ切れだよ。自分の中にネタを探しても見つからないので、何に影響を受けたとか、感動したとか、それは良くないとか、そういう外部との接点を用いて書いていくしかないのかもしれない。友達と話しているときにしか出てこない言葉みたいなことで、めちゃめちゃ言いたいわけではないけれど、話の流れの中で口にする言葉はある。そういう、僕になる以前の僕も総動員しなくちゃいかんのかもね。