20210518

●さんの詩集が届きました。バツのつけかた。

●さんは名前からしてどう考えても、マルっこくて、みんなを受け入れてしまいそうだって思ってたんだよな、どこかで。なのに、今回はバツのつけ方について書くのだという。バツをつけることについて、●さん自身が何を感じていたのかは分からないけど、どこか「まっすぐな通知」とは違った。なんだろう、気迫が感じられたような気がする。「まっすぐな通知」だってもちろん気迫があった、だけどそれ以上のものがここにはあった。ずっと言葉が揺れているような気がして、そこから滲み出た覚悟みたいなものが垣間見えて、少しだけ泣きたくなった。勝手な妄想ですが。

あとがきを読むと、●さんにとってのバツとは、可能性を絞っていくということに見える。「なんでもできる、を、なんでもできると勘違いしたまま、なんでもできる人間になってた。」と書いてから、「そんな自分を壊してみたくて、そんな気持ちを残してみたくて、この詩集を創りました。」と書いている。何にでもなれるということは、まだ何でもないということだ。だから、何か成し遂げるために、色んなものを切り捨てて行く覚悟、みたいなことだと、僕はこの文章を読んで思った。そうだよな、とも思った。でも同時に、詩を読んでいたとき、僕はあまりそんなことを思わなかったな、とも思った。

バツのつけかた」に収録された詩の中には「私」、「あなた」という言葉で、自分と他人を明確に切りわけたものが多く、その分割はどこか「孤独」に繋がっていたように思う。「ゆびさきが光る、と同時に、きみが光ったような気がして」と書いていた「まっすぐな通知」とは正反対だった。僕たちは本当にたまに一緒になってしまう瞬間があって、そんな瞬間のあたたかさを切り取ったのが「まっすぐな通知」だったとしたら、「バツのつけかた」にあるのは、僕がどこまでも僕でしかないこと、あなたになれないこと、の冷たさだったかもしれないと思う。僕たちは結局のところ、一人を選んでいくことしかできなかった。そういうのを考えていくと、この詩集が何にバツをつけるのかっていうのは、夢とか可能性というよりも、他人の存在だったように見えるし、だから、この本を読んでいるとき僕はずっと僕自身にバツがつけられているような気がしていたんだよな。僕の顔面に大きなバツがあった。でも、それは全然悲しいことではなくて、僕は他の誰でもないし、もちろん●さんでもなかったという当たり前のことで、だから僕は僕で、僕の進むべき先を見つけていくしかないという、そんな背中を押してくれるような、優しいバツだった。

と思ったんだけれど、僕が読みたいように詩を読んでいるだけな気がするなこれは。はっきり言って一回目読んだとき、何が書いてあるのかぜんぜん分からなかった。まあ、詩なんてそういうもんなんだけれど、二回目三回目と読んでみたら、あるとき意味が現れてきて、こういう感想がポトっと落ちてきた。それをとりあえず言葉にしてみました。