20210517

note や Twitter で影響を受けた人のことを積極的に書かないようにしている節があった。最果タヒとかね。僕が敬体と常体を使い分けていたりするのは最果タヒの影響です。前に note で、最果タヒが書いた絵本の「ここは」の感想文とか書いちゃったから分かる人は分かると思うけれど。あと、この前書いたカタシロに登場していた名越先生も好きだ。あの人ほど信頼できる大人を僕は知らない。今60歳だって。いつかあんな人になれるのかしら、僕も。その他諸々。きっとそういうのをバレるのが恥ずかしかったんだろうな。あんまり影響を受け過ぎていたりすると、出典が分かっちゃうからね。別に僕は何かを参考にして書いていることは少ないのだけれど、それでも、でてくるよね。「自然に生きてるだけですれ違っていくから、あなたの悲しみも、わたしの寂しさも、すべてかわいい。」と記事に書いたことがあって、このかわいいの使い方とかモロに最果タヒだよね、ほんと。自覚してたけれど、自然にでてきたし、まあ、いっかーと思って使ってます。

こういうこと隠す必要性があんまり感じられなくなってきたので、おおっぴらにnoteのTwitterアカウントでフォローし始めた。note は僕の人生を綴る場所だと思っていたから、自分以外のものを書かないように意識していたのだと思う。だけれど四半世紀にも満たない人生ではさ、ネタ切れだよ。自分の中にネタを探しても見つからないので、何に影響を受けたとか、感動したとか、それは良くないとか、そういう外部との接点を用いて書いていくしかないのかもしれない。友達と話しているときにしか出てこない言葉みたいなことで、めちゃめちゃ言いたいわけではないけれど、話の流れの中で口にする言葉はある。そういう、僕になる以前の僕も総動員しなくちゃいかんのかもね。