20210429

朝をたべる。

朝、目が覚めたときに、この表現を思いついた。何を意味しているのかは分からない。

日記とかに、具体的な体験とか事実を書くことは苦手で、それはきっと僕の関心がないからだった。何を食べたか、何を話したか、ということよりも、何を感じたか、何を考えたかの方が大事だと感じる。映画を見るときに、話の展開より先にその作品のテーマのことを考えてしまうみたいなものだ。画面上で起こっていることは誰にでも読み取れるのだから価値はなく、その裏にある抽象的なことの方が高尚だ、と、言葉にしたことはないけれど、無意識にそんな風に内に考えていたような気がする。でも、ある時からそんな自分が嫌で、もっと具体的なことを書きたいと思ったこともあった。

朝をたべる、と書いたとき、その言葉は一体どこに属していたのだろうか。感情のことは書いていない、だからと言って現実的なことでもない。詩、という風に言うこともできるのかも知れないけれど、それは詩的でもない気がする。対象と、それに対する行動が明確に定義されているにも関わらず、意味が取れない。だからこそ、意味が自動的についてくる気がする。朝と、食べるの間に距離があるから、その間を読み手の方で勝手に想像しなければいけなくなるのだと思う。

昨日の夜、苦し紛れに作っておいた朝をたべた。