20210310

※ただのメモ書きです

note.com

面白い記事を見つけた。斉藤環さんの記事です。簡単に言うと、コロナで自粛することで、オンラインという選択肢が入り込んだことによって、僕たちは臨場感について考えることができるようになった、ということ。臨場感が必要だった理由を、暴力、欲望、関係の三つに分類している。

ここでの「暴力」は僕なりの言葉にすると「影響」のことだと思ったし、「欲望」は「影響」を受けた、もしくは、与えたことによる僕らの反応で、「関係」は、その「影響」の際に生じるやりとりのことだった。臨場感は暴力だから、それぞれがそれぞれの距離感を設定した方がいいし、みんなが引きこもって、考えられるようになっている今だから考えてみよう、ということだと受け取りました。

そこで、果たして、オンラインは暴力ではなかったのか、ということについて考えてみたいと思ったし、ここが僕が今考えきれていない点だと思った。というか、僕が模索している部分だった。オンラインに臨場感が成立しない、という前提がこの記事にはあるわけですが、それは本当だろうか?

まず、対人関係のインタフェースとしてスマホやPCが存在してしまう以上、オンラインも暴力であることには変わりないんじゃないかな。仕事が上手くいっていない期間は、休日に会社のメールとか見たくなくなってしまうということがある。これは、要するに、メールの通知が僕に暴力的に作用してしまうから起こることであって、そのためにはスマホを捨てる必要がある。

第二に、欲望。これもある気がする。そうじゃなきゃ、文章とか書いていたれない。でもここに関しては、範囲が狭いよな、とも思う。オンラインの臨場感による欲望って、共感したい、共感されたいくらいしかないんじゃないかな? まあ、現実だと他に何があるのかわからんけれど。

で、第三に関係。これが問題。関係には非対称性がなければいけないと書いてあった。非対称性がない限りそれは関係性ではなく、おそらくコミュニケーション(情報の伝達)に回収されていくだろう。そして、オンラインはおそらく対称性だよなと思う。それは、何というか、僕とあなたが同じであること、を確かめるために用いられている側面があるからだと思っていて、異なるもの同士はかなり交わり難いだろう。異なるものが交われるのなら、炎上なんてないと思う。炎上が発生するのは、きっと、異なることを確認するためではなく、同じことを確認するためだった。そしてそれは、多分オンラインにおいては「共感したい」「共感されたい」のみが欲望として前衛化するためだった。

オンラインにもすでにある種の臨場感は働いている、というのが僕の立場なわけだけれど、それを増すためには、非対称性を持ち込む必要があり、それはオンラインにおける新しい欲望の回路を提供する必要がある、ということかな、ということでまとめておきます。とりとめもなく書いたメモでした。

 

追記:

ここで共感したいとか書いてるのは紛れもなく僕の欲望だからだと思う。はっきりいって自分のことしか見えてないから、「オンライン」とか一般化するような書き方はあんまりよくなかったかもしれないし、その他にももしかしたら欲望があるのかもしれんね。