20210311

震災から十年になるから、記事を書こうかなって思っていて、3/11のうちに書き切れたらnoteに公開するつもりだったけれど、書き切れなかったので出さないことにする。何というか、タイミングというのはある。本当は僕は震災のことはあんまり書きたくない。今日が3/11だからと言って、何か大きく記事として取り上げるべきだとは思わないし、でも、十年だから、節目としていいのかなとも思ったりもしたし、これから先にを見据えるために、書き残しておくのもいい気がしました。でも、書き切れなかったので仕方ないです。書き途中のものだけどここに供養しておくね。


少し大きめのガスボンベを白く塗りつぶしたみたいな、安っぽいSF映画のセットみたいな、そんな違和感しかないはずものが、当たり前みたいな顔をして中央玄関の横に置かれた。登校して、授業を受けて、部活していた日々のすぐ横で、静かにじっと佇んでいた。あの日、それが何月何日だったのか、春だったのか、夏だったのかすら思い出せない。でも、気づけばそこにあって、思い出の片隅でこっそり風景の中に紛れ込んでいる。僕たちは、どこかで受け入れていたのだと思います。日常の受け皿は意外と広かった。例えば、あるとき街中で銃声が響いても、一瞬耳を押さえるだけで、次の瞬間にはまた生活に戻ってしまうというような。どんな異常もたちまちに溶け込んでしまった。安っぽいSF映画のセットだろうが、何だろうが、そこにあったらきっと何でもリアルになる。だから、誰も気にとめず、僕たちは毎日、その横を通り過ぎて、遊んで、学んだ。放射線測定機。

どこか遠くではなかった。たった山を何個か超えた先の街が津波に流されたらしいと、その映像の印象が強く残っている。その日は学校で卒業式があった日だったから、早く帰宅して友達の家で遊んでいたところだった。友達の家の中で、大きな揺れを感じて、僕たちは外に飛び出した。よくわからなかった。昼過ぎののっぺりした空に跨った電線が揺れていたあの時、津波に飲まれていた街があったのだと知ったのは当然、後になってのことだ。地デジ化する前のテレビの中で繰り返し、繰り返し、報道される原発と、津波のニュースをぼうっと見ていた。日本地図の一部が千切れてしまったみたいで、それくらい大きなことが今そこで起こっていた。当時やっていたガンダムのゲームの中に、核ミサイルを積んだモビルスーツがいて、そのことを思い出した。起爆すると、その爆発が球状に広がり出して、あらゆるものを飲み込んでいく。原発が爆発したのだと、ニュースは言っていた。今も広がり続けている爆発が、そのうち僕の街も飲み込んでいくような気がした。逃げ場もなく、ただ、暴力的に焼かれて死んでしまう。そう思うと、少し怖かった。でも、そんなことは起こらなかった。

画面の向こうにあった世界の終わりみたいな風景は、紛れもなく僕たち生活と地続きなのだと、あの振動は伝えていた。規模の違いはあったけれど、僕の街も揺れたし、それなりに怖い思いをした。でも、明くる日、僕たちはまた普通の生活をするしかなかった。そのあっさりした感覚を、今でもはっきり覚えている。僕たちの生活は書き変わるべきだった。書き変わって欲しかった。


ここから先も本当は文章は続くわけですが、ないです。ただ、一ついうなら、痛みについて書きたかったのだということだった。僕も同じように痛みを感じたかったんだ。そうしないといけないと思った。同じものの渦中にいて、どうにかして少しでもマシになってもらおうと思ったら、それしかなかったんだって思う。SNS がそれをある種可能にしたところはあった。不謹慎だとかいう言説はきっとそういうところから発せられた正しさだったと思う。痛みを感じたかった、共感したかった。でも、本当は、僕たちは誰かの痛みを知ることはできないから。そんなことを書きたかった。