20201123

僕は普段、僕のことを「僕」と呼ぶ機会は少なく、「俺」だったり「私」だったりするのだけれど、「俺」とか「私」という言葉を使っているときはどこか自分ではないような感覚を覚えることがあって、それはきっと僕が僕を一番素直に表現できる一人称が「僕」だからなのではないかな。俺が一番フィットする瞬間もあるし、私が一番フィット瞬間もある。でも、「僕」という言葉のしよう範囲を広げてみようと思って、ふだんだったら「俺」とか「私」とか言ってしまう瞬間に立ち止まって、「僕」と言ったとき、どこか安心できたような、言葉として感情を込めるのにピッタリサイズだったような、そんな感覚がありました。

キャラというのは、人間の核なのではなくて、もっと付け替え可能なものかもしれない。僕が僕であるとき、俺であるとき、私であるとき、その他にも、言葉遣いであっても、それぞれキャラにおいて、表現可能な何かがあって、それはもっと奥深くにある、僕たちの生理的な反応から発生している。つまり、生理的な反応の方を、的確に表現できるように、その場その場でキャラを使い分けた方がいい。僕の知っている範囲だと、コミュケーションの上手い人はその場その場に適応して人格を出すのが上手い人だし、そういう人はシーンごとに、という話ではなく、反応するごとに、キャラを使い分けているようにだって見える。そのキャラの幅が大きい人ほど人からすかれる傾向があるし、幅が狭い人はその逆だし、つまり何を言いたいかというと、人格の一貫性なんてくそくらえです。