20201112

何でかは分からないけれど、急に東村アキコの「かくかくしかじか」をkindleで衝動買い(全5巻)して、一気読みしてしまった。東村アキコの美術の恩師についてのお話で、流れはスポ魂みたいな話なのだけれど、回想風に語られるからずっと懐かしくて、こっちもなつかしくなってた。ノスタルジーがずっとあった。読み終わった頃には、感極まって泣いて、ふいに立ち上がってしまった。それで、天井を見上げた。そういうことがたまにあります。僕の部屋の壁と天井は、白いけど近くで見ると凹凸が見えちゃうタイプのあれで、カメラで撮ったらまっさらに見えるのに、実物は残念な感じ。その「カメラで撮ったらちょっとは綺麗なのになあ」、っていうのが自分の肌みたいな感じがして、そういえば子どもの頃はよく「美白になりたい」って言っていたなあって、懐かしさに引きずられて思い出してた。そう思ってたきっかけが何かなんて忘れてしまったし、本当にきっかけがあったかすら分からないけれど、物心ついたときには、すでに白い肌に憧れがあった。白くなれたら、まったく別の人間になれるような気がした、こう、気取って無口で、かっこよくいられる気がした。そういうのに、憧れがあったのかもしれない。でも、僕は、小学校の頃にソフトボールやって、中学は朝に陸上で、放課後は野球とか、汗にまみれながら毎日日光を浴びていたわけだから当然のように美白なんぞ手に入るわけはなかった。中学の頃は坊主で日焼けしてるという2点から、あだ名はオバマ大統領でした。そのくらい、日焼けしてたし、冬になったら白くなるとかいうタイプでもなく、日焼けしたまんま元の色に戻らないけれど、あのときの僕はいつか美白になれると強く信じていたそんな馬鹿だったよなあ。

僕が化粧水とか日焼け止めクリームとか顔に塗るようになったのは、たしか二十代に入ってからだと思う。それまでは、ぜんぜん後先とか考えないで紫外線の下に肌をさらして笑っていたし、乾燥も気にしてなかった。気に止めることだと認識すらしてなかったのだと思う。自分の肌とか顔は普通だと思ってるけど、普通だからこそ困ることなんてなかったんじゃないかなあ。というように、普通みたいな言葉を使ったときはだいたい嘘で、人には普通といいますが、それはあるときはなんかいいなで、あるときは最悪で、その間の振動運動を繰り返していきる日々の平均値がだいたい中くらいだから普通みたいな言葉になります。ずっと一定の評価でいるわけでもなく、一喜一憂している。なおかつ、僕がいいとか悪いとか思ってるのだ、と思われるのが嫌だったからというのもあった。でも年々、揺れる針が「最悪」に振れる機会が多くなった。大学4年のときに何気なく部活の同期に「入学したときよりもフケたよね」って言われた言葉がどんな言葉よりも耳の淵にこびりついていて、これが年をとることなのだと実感した。そのくらいから、若さが失われていくことが無性に怖くなった。今までずっと、「お前は、ぜんぜん変わらないなー」って言われて生きてきたのですが、そういわれる度にやるせない。僕だけがぜんぜん変わってないのに、他のみんなは着実に変わっていく。でも、本当は変わらないことなんてなくて、時間だけは確実に過ぎていくので、肌とか、年齢を感じる部分の劣化は徐々に始まっている。このまま、幼い精神のまま、体だけが衰えていくような感じがして本当に恥ずかしい。昔はみんな簡単に変わっていくなあ、そんな簡単に変わらない方がいいんじゃないかなあ、とか思ってたのに、僕が馬鹿でした。十年後とか、どうなっているかなっていう想像力が少しずつついてきていて、その感覚も余計に嫌だ。十年前は、十年前のことを知らないからここからの十年、どうなっていくかなんて妄想でしか語れなかったのに、僕は今、過去の十年を持っていて、周囲には十歳くらい年上の人なんてうじゃうじゃいて、その中で、僕はこのまま、このままでいるかもしれないという想像ができてしまって怖い。今はもう「美白になりたい」とかどうでもいいのだけれど、そう無邪気に言っていた瞬間がなんとなく懐かしくなった。今はちゃんとフケたい、という思いだけがあります。

何の話だろうこれは。