20210113

Macbook を買いました。今日買えば、クレジットの引き落としは来月になるから大丈夫だろ、みたいな楽観。なんだかんだ、20万円強の出費は大きいので少し心配です。大丈夫だろうか? 届くまでは、2~3週間かかるらしい。楽しみすぎますね。

 

ファーストマン、という映画はニール·アームストロングが月に行くまでの物語なのだけれど、あそこにあった虚無感みたいなもの、死の匂いみたいなものがずっと気がかりで、そのことを思い出していた。話の筋をまったく覚えていないけれど、僕の印象では、彼は娘の死から逃げるように、もしくは死んだ娘を追いかけるように月を目指していた。あまりにもそのことしか考えていないから、彼はどんどん人間をやめていくように見えて、怖かった。いろんな人から、「やめたら?」みたいな言葉(覚えていないけれど、否定的な感情だった)を抱かれるけれど、それを振り切って、かれは月にたどり着く。あのときの月の風景が彼岸にしか見えなくて、劇場で見たときは戦慄が走った。なんの音もなく無音で、草も水もない、だだっ広い石の大地を眺めている。あのとき、何を感じていたのか、まったく分からないけれど行くところまで行ってしまったら、こうなるのだな、と思ったし、その後月から地球に帰還する(最中の)カットが一つもないのも怖かった。彼の魂はずっと月に取り残されたままになってしまったように感じた。

この映画では「月に行きたい」=「死んだ娘に会いたい(みたいな感情)」という構図になっていて、だからこそ月はああいったものとして演出されていたのだなということを思っていますが、でもなんで、チャゼルは「月に行きたい」=「死んだ娘に会いたい」という構図を作り出したのか、というところが疑問だった。月に行った結果、そこは彼岸だった、と、その演出をするために彼は娘の死をアームストロングの月に行く動機として選んだ。なんとなくは分かりますが、言語化まではできない。

 だけど、最近になってなんとなく見えてきたところがある。ひたむきに努力する人は、どこか、死に近いところにいるように見える。僕が辛かったり、追い込まれたときに「死にたいー」とか言う、それよりも死が迫っている気がする。努力するとき心のどこかできっと、死を許してしまっていて、だからこそ、すべてを捧げるということができるんだ。自分の命を差し出すことができる、その態度に僕は太陽みたいな強い光と同時に、そこにできる黒い影の存在を見る。だからなのかな。生と死は案外近いところにあるな。そんな関連性の中で、努力=死みたいな構図は自然と生まれる。そして、僕何かに命を差し出したいと、そう思ったりした。これは今度noteにも書きたいですが!