20210314

 シン・エヴァンゲリオンのネタバレあります。注意してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エヴァを見てきた。ありがとう、信じてました。

totu0nv.hatenablog.com

 

↑僕はこう書いていたわけだけれど、決して間違いではなかった。こんな抽象的な内容で、当たってたとか言うつもりはないけれど、でもちゃんと期待していたものを示してくれたし、それを軽く飛び越えてきたことがすごくよかった。最初から最後まで泣きっぱなしだった。冒頭の旧パリ市街地での戦闘の時から泣いていて、あの瞬間がめっちゃカッコよくキマっていたこと、それも、何度もアマプラでみたにも関わらず、劇場で見たらめっちゃ楽しかったこともそうだった。

前にも書いたけれど、旧エヴァにあったのは誰とも関わることができないんだという、他者に対する不可能性と、感情が見えないことに対する恐ろしさ、それ故に全ての個人が個人の中だけで完結していく閉鎖性だったと思っているのだけれど、新劇場版にはちゃんとキャラクターの相互作用性があった。それはちゃんと序からやってて、シンジ君が「笑えばいいと思うよ」っていうシーンで、旧エヴァだったら綾波がシンジにゲンドウの面影を被せるという他者に対する不可能性みたいなものがあったところを、ちゃんとシンジに対して笑ってたし。破でアスカが三号機に乗るのもそういうことでした。確かに感情の描き方が甘いとか、そういう指摘があって然るべきなのだとは思うのだけれど、そういうのはあんまり関係ない気もする。

あと、あんな綺麗な涙、エヴァで見れると思わなかった。シンジ君が泣いた時、綾波が泣いた時、あれは明らかに前進するための涙だった。よかったなあ。

エヴァの感想をnoteであげてやろって思ったりもしたんだけれど、エヴァについて書くってことは僕の人生を書くってことだったし、それはすでに僕の自身の既存のnote記事の内容を反復するだけになりそうだったからやめた。シンジ君の心情変化って僕がこの一年位書いてきた変化のことだったように思っていて、というか、そういうに見えてしまう僕はシンジくんと同化しようとしすぎてる。でも、そもそもエヴァがそうやって消費するコンテンツであるので、そういう書き方しかできない。

ただ、今作は、このエヴァ的な消費の仕方、つまり物語(虚構)を用いることによって、自分のアイデンティティの拠り所とする行為に対するアンチテーゼだった部分もあって、それがシンジ君の最後の選択になっている、と思う。これは、なんというか、僕の実感です。根拠とかはほとんど出せない。本当にアンチテーゼだったかどうかというのはアディショナルインパクトの内容を完全に理解する必要があって、一回だけではそれは無理だった。ただ、最後、実写の映像が映る。あれが印象に残ってる。そこから「現実を見ろ」みたいなテーマを読み取ることはできるけれど、別に僕はそんなことはどうでもよくて、実写だけど、人だけはアニメで描かれていたから、優しくて、すごい泣いたし、あのイメージがエヴァ的消費に対するアンチテーゼに見えた。

現実と虚構を接続して、アニメによって現実の風景が聖地化されたことはたくさんあった。新海誠なんかがその一人で、現実の風景を圧倒的に綺麗に書くことで、現実の風景を虚構で上塗りする、現実にヴァーチャル的に書き込む、ことによって現実の中における虚構のあり方を再定義する。聖地化には、そんな意味が生まれてしまっていた気がする。この土地を瀧君と三葉が歩いたんだ、っていう物語を発生させることによって、僕たち現実を多重化すること。ポケモンGOこれ系の想像力を意図的に取り込んだ最たる例だった。だから僕たちはきっと、現実を多重化するために、虚構の力があるのだと信じ込んでいた節があったと思う。けれど、エヴァのラストシーンは逆だった。現実にヴァーチャルを書き込んで、現実から虚構を読み取れるようにするのではなくて、むしろ僕たちの自身が虚構だったのではないか、というようなラストだと思った。僕という虚構とあなたという虚構が、それぞれ物語を紡ぎながら、現実の中で共存しているということ。大きな一つの虚構に依存するわけでもなく、それぞれが、それぞれいる。そのイメージのために、最後は人だけがアニメーションとして描かれていたような気がするし、この前提が成立するからこそ、最後にくっつくのは、自分の外部としての存在のマリだったのだと思った。こんな優しいことありますか! だからこのエヴァはみんなが自分を投影する物語から、単なる庵野秀明私小説になり、僕を投影するべきではないと思ったし、だから卒業式とか言われてるんだろうな。