20210602

シンエヴァの感想を書いたとき、ぼくはこう書いた。

むしろ僕たち自身が虚構だったのではないか、というようなラストだと思った。僕という虚構とあなたという虚構が、それぞれ物語を紡ぎながら、現実の中で共存しているということ。

これを歴史的な目線で見るとどうなるかということについて考えていた。

僕らはずっと外部の事象に対し虚構を使ってきた。最初は宗教のような虚構を、それから進むと通貨などの虚構を。ぼくらは生まれた瞬間から全く違う生き物だから、同じ基盤の上にいるのだと信じるためにどうしても虚構が必要だったのだと思う。同じものを信じている主体なのだと信じられなければ、協力なんてできない。と、最近読んでいるサピエンス全史には書いてある。

(これは余談だけれど、虚構を生んでいるのはぼくらの意識であり、この意識を消すときっと社会自体が崩壊するだろう。ぼくは今まで伊藤計劃「ハーモニー」後の世界というものが想像つかなかったけれど、サピエンス全史を読むことでようやくわかってきた。)

日本人が最近まで、強く信じていた虚構は経済成長だったけれど、それはバブルの崩壊とともに消えてしまった。そのときにきっと国家という枠組みや他人など、いろんなものが緩やかに信じられなくなっていったような気がする。ぼくが物心ついたときにはもう何も信じられない社会で、ずっと他人のことが怖かった。だから自分のキャラを決定し、そのキャラでもって自分の地盤を固めることをし始めた。blogやnoteやyoutuberもきっとそうだ。

大きな虚構が社会の基盤にはならないから、ぼくらはぼくら自身を虚構にするしかなくなったのだと思う。個人がフィクションとして、他人の共感を集め関係していく。そうしていくうちに、従来はトップダウン式の虚構だったけれど、これからはもしかするとボトムアップ式の虚構として社会が形成されていくのかもしれない。そんなことを思った。