20210619

映画を観るってどういうことだったんだろうか。スクリーンに映し出された誰かの人生を、まるで自分事のように消費して、涙を流したりして。たった二時間の夢みたいな。エンドロールの後にはすぐにまた現実に引き戻されて、そのときぼくたちの体の中にはいったい何が残っているのだろう。と、映画大好きポンポさんを観て考えていた。

映画を作ること、ただそれだけに人生を擲っていく姿の中に、何故ぼくは共感したんだろう。その人がその人らしくなっていく、それは異化だったはずだ。決して同化ではい。君とは別人だよと突きつけられている。それなのに、そこには自分の姿を重ねている。「人間」とぼくは以前書いた。ぼくたちは人間だったから、安心して違うものになっていけたね、と書いた。要するにフォーマットが同じだから共感できるってことだ。でも、同じ人間であることだけが、ぼくたちの繋がる方法だっただろうか? 分からない。もしかすると、違うものとして存在しているから、ぼくらは同じであれる、のかもしれないと思った。なんとなく。それなら「人間」とかいうフォーマットの問題じゃなくて、さよならと振った手だけが、ぼくをあなたにしていくのかもしれない。だったらぼくは好き勝手にさせてもらえればよかった。ぼくが好き勝手やることでしか、あなたの背中を押すことができないのかもしれないのかもとぼんやり思った。だから、あなたも好き勝手やればいい。三島由紀夫を読みながら、大義のために死ぬことの病的な美しさを感じていた。なにか国のためとか、恋のためとか、そんな神様のために命を捨てたかった。そういうものがなければ、平坦な閉塞感の中で老いていくしかないと思ってた。でも、関係ないんだなきっと。ここにいるのはぼくでしかないから、ただ自分で決めて命を擲ってくんだ。神様なんかいなくても簡単に死んでやる。